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テレ便

日々の勉強記録や映画・漫画の感想などを書き留めておくブログ

レヴェナントを見てきた

映画  アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 過酷なる世界 無慈悲なる神との邂逅

レヴェナント~蘇りし者~を見てきました。

監督はアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ。以前、バベルやバードマンを撮影した監督です。

調べてみると、今回で五作目らしい。レヴェナントは既に様々な賞を受賞しているらしい。それも納得だ。これほど過酷で美しい映画もそれほどはないだろう。

前作「バードマン」でもそうだったが、この監督の描く世界はまったく甘えがない。完璧なまでに無慈悲な世界がそこに描かれる。

ぼくのなかでこの監督の作品は文脈に乗せられないので、細かいことはあんまり語らないでおくが、傑作だったことは断言しておきたい。グリズリーに襲われ仲間に棄てられた猟師グラスが息子を殺したフィッツジェラルドへと復讐を遂げる物語だ。

映画が始まった途端に33人もの味方が無残にも殺される。しかし、殺した側にも殺した側の理屈が存在する。土地を奪われ、文化を奪われ、娘すらも奪われた現地住民の視点と彼らに襲われ殺されていく人間たちの視点がフラットに描かれる。

何十人という人間が自分たちなりの理屈を抱えて生きている姿が描かれる。

本作ではグラスの息子ホークを殺したフィッツジェラルドはラスボスともいえる存在だ。しかし、彼には彼の信念や理屈があることが映画をみていると感じ取ることができる。

この過酷な世界にあるのは、無慈悲な神の祝福と弱肉強食の理論だけである。

機会があれば、この監督の映画は追いかけなおしてみたいところだ。前作バードマンでも見られたシームレスな視点移動が本作でも多用されていて、敵と味方と自然が一体となっているように描かれているのが印象的だった。

ただ、ぼくはこの監督の映画は過酷なだけの世界を描いているのとは違うのではないかなとも感じている。映画を通して大いなる神の意志、あるいは宗教的な精神性を示そうとしてるようにも感じる。

そういえば映画を見ながら「許されざるもの」を思い出した。人の意志は生きる方に無くのだなぁ。

メモとして記録しておこう。

人生の後悔から生まれたすべての小説へと祝福を

小説家になろう 大林宣彦 年を取るにつれて自由になるということ 祝福

ただいま~

昨日、いろいろやって東京から帰ってきました。これで、自分のこなさなければならないタスクを随分と終了させることが出来た。

それにしても、具体的には言えないが辛いけれど終わってみるといい経験だった。成長している気がするな!

あ、とりあえず、画像が欲しいから今回の話題に関連しそうな本を適当に貼ってみよう。

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さて、まだ日記再開できないけれど、今回はやはり海燕さんの記事を受けての内容。

人間の正しい生き方とは何か。

という記事です。

 

これ、昨日帰ってきてから朝までずっと海燕さんと話してたんだけれど、その一部の内容です。ぼくは話していることを喋りきったら忘れちゃうんだけれど、海燕さんは覚えているみたいです。すごいなぁ。

おかげで、この記事読んでたら昨日の会話の一部が思い起こされました。

まぁ、枝葉の話なんかは思い出さないんだけれど、一つ面白い話をしたことを思い出したので書き留めておこう。

もしだんだん不自由になっていくとしたら、それはどこかで間違えているのです。

 

 つまり、生きつづけることでより幸せになっていくようなスタイルが正しいのだと思う。

 

 人生が進めば進むほどに不幸に不自由になっていく生き方は、どこかに問題がある。

 

 もちろん、人生はそううまくいくとは限りません。生きていれば色々なアクシデントがありえるでしょう。

 

 しかし、少なくとも精神的にはゆっくり楽になっていくことが望ましい。

 

 生きつづければ生きつづけるほどにしんどくなっていくのだとすれば、何か問題を抱えていると考えるべきです。

 

 その生き方をひとことで「成長」と呼んでもかまいませんが、必ずしも能力が向上し人格が陶冶される、といったことを指しているわけではありません。

 

 ダメなままでもいいのです。

 

 ただ、自分を縛る色々なものから解き放たれていくことが大切だと思う。歳を取れば取るほど縛られていくようでは困る。

 

 正しく生きていれば、ひとはゆっくり解放されるものです。

 

これは、さっきの海燕さんの記事の引用です。

ある意味どこを抜き出しても同じだから、適当に最初の方を抜き出してきました。

ここで、海燕さんの話していることってぼく自身の信念でもある。

ぼく自身に会ったことがある人は、わかるかもしれないけれど、ぼくは自由闊達というのが好きなんですよね。しかし、ただ自由なだけではダメなんですよ。

ぼくの好きな言葉に、論語の「我十有五にして学を志す~」って有名な孔子の言葉があるけれど、その言葉の最後が「心の赴くままに行動すれども則を越えず」ってのがある。

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自由気ままにやっても、周りとのコンフリクトがなく生きられるって最高だねって言葉だと思うんだ。やっぱり、なんだかんだ言って周りとの軋轢ってストレスだからね。

じゃあ、嫌な相手を遠ざければいいじゃんって言うかもしれないけれど、「嫌な相手がいる」ってこと自体がストレスなんですよね。その戦略として、嫌な相手と出会わないようにするとか、相手と異なるステージに行ってしまうというのは的確な戦略だと思う。

しかし、理想的なのは「どこでも自由に振舞える」うえでコンフリクトを起こさないのが理想なんだろうな。ぼくは昔からそれが理想だと信じている。

ぼくは許される、って表現を使うんですが、何処にいてやりたいことをやってもそこそこ許されるひとというのが世の中にはいる。その最終系が「則を越えない」ってことだと思うんですよね。

で、少しずつかもしれないけれど、ぼくは自分と異なる分野に適合できるようになっている感覚がある。それは少し嬉しいなって思います。

こういう感覚が、年を取るほどに自由になるってことだと思うんですよね。そして、それがぼくと海燕さんの考えている共通の理想の一つだと思うんだ。

で、ここまでがおまけ話。というか前提話?

この「年を取るほどに自由になる*1」という感覚なんですが、じつはこれもストレスになったりする。

『小説家になろう』で批判されるものの一つに「自分のやりきれない想いやうっくつを解消する場」というのがある。「転生」って概念、つまり「2週目の人生はもっと上手くやれる」ってのは「もっと早く出来ていれば・・・」という後悔の裏返しでもある。

人生の早い段階で適切なスキルが開放されたひとは、その世界を楽しむことが出来るだろう。しかし、多くの場合は一番必要なときに持ち得なかったスキルを、後になってから獲得することが多いんじゃないかな。

そのスキルを得た後に過去を振り返って、あのときこのスキルを持っていたら、というやりきれない思いや後悔が小説として表現されている。

だから、うへぇ、とする人もいるんだろう。

まぁ、それはいいんだけれどね。そういうときは読むのを辞めたらいいわけだし。

でもね。昨日ふと思ったんですよ。

小説家になろうが仮に過去の後悔を無聊する場だったとしよう*2。しかし、読み手がそういう受け取り方を必ずしもする必要はないよなって。

むしろ、そういう後悔が描かれた作品を祝福だと捉えて読んだほうが面白いよなって。

べつに、作品の鬱屈とした思いが良いとか言わないよ。ぼくはそういうのどちらかというと苦手だし。

そうではなくて、小説に後悔を書いているということは、その後悔を書いてる本人は自覚しているんだよな、と。

たとえば人との付き合い方や、組織での生き抜き方、女の子との仲良くなり方でもいい。そういう様々なスキルが昔より育ったから後悔しているんだよね。

それって小説を書いている本人は昔より自由に近づいたってことじゃないのかな?

それって祝福すべきことだよね、って、そうぼくは思った。べつに嘆くことじゃないよね。

これを海燕さんに話したら「それは少し面白いね」みたいに言っていたんで、覚書き程度に残してみた。

後悔できるくらいにスキルアップできたんだから良かったね、って小説を読むときに思うと幸せになるよね。そして、もし書いている人が失敗したと思っていてもちゃんと前に進んでいるんだからいいことじゃないか、とそういいたいわけです。

人生は望んだときに望んだスキルが開放できるとは限らない。だからスキル開放のタイミングが遅かったと嘆くこともあるだろう。

上手いタイミングで上手くスキル開放されたなら最高だけれど、そうは上手くいかないかもしれないじゃない。そういうどうしようもないことを嘆くのは、わかるけれど、まぁ置いておこう。

一時嘆いたあとに、でもおれ成長したじゃんあのときのトラウマ乗り越えたぜ、って思ってみたら少しスッキリするよね。

幸せじゃないですか。

なんかね。そんなこと思ったら、よかったね、と言ってみたくて記事にした。

おめでとう。良かったね。ちょっと自由になったじゃん。苦しむ必要はたぶんないですよ*3

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*1:昨日の海燕さんとの話では、イベントを達成されてスキル開放がなされると表現した

*2:べつにそれが全てではもちろんないが、そういう要素も一定の割合を占めているだろう

*3:もし後悔をしてたらね。してない人が多いとは思うけれど、そういやあんまりこの視点って見ない気がするとおもって書いてみた

解説?新世代の物語『10年ごしの引きニートを辞めて外出したら自宅ごと異世界に転移してたんだが』はどういう感覚で作り上げられた物語なのか

小説家になろう 10年ごしの引きニートを辞めて外出したら自宅ごと異世界に転移してたんだが 無職転生 祝福 年を取るにつれて自由になるということ 成長するということ 時代の感性

起きたら海燕さんが、昨日話してた話題を記事にしていた。びっくりだよ。ねるってってたじゃん!?

 

記事を読んだら、実に良くまとまっていたので、こりゃあ僕のほうも10年ごしの引きニート側からの記事を書いておくべきかなって思ったので何も考えずに筆をとることにします。

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あ、ちなみにブロマガのほうで掲載してたテレ便は運営に公式BANされましたのでこの場所を用意しました。おそらくSWAN SONGの画像とかがアウトだったんだ。エロゲの話題を気軽に出来ないとは、世の中はままならぬなぁ。

 

さて、まぁいいや。話を戻そう。

これが新世代の感性と物語だ! 『無職転生』と『10年ごしの引きニートを辞めて外出したら自宅ごと異世界に転移してた』を比較する。

この記事がおもしろいです。

ぼくと海燕さんが寝る前に互いに話してた話題が起きたら記事になっていた。まるで妖精さんみたいだ。

話題の発端は、昨日のひまつぶしラジオから始まります。聞いてた人には申し訳ないけど面白くなかっただろうな。ぼくと海燕さんが「ひまですねぇ」「ひまだなぁ」といいながら互いにゲームダウンロードしたりなろう小説を読んだりするだけのラジオだった。『10年ごしの引きニートを辞めて外出したら異世界に転移してた』の話題が出たのだけが価値のあるラジオだったかもしれない。

そして、ラジオの終了後ずーっと二人で話してたらいつの間にか、海燕さんが『無職転生』側、ぼくが『10年ごしの引きニート』側にたって互いに意見をぶつけることになってたんですよね。

 

『無職転生』は凄く好きなんだけれど、主人公のルーデウスの視点には共感できないんですよね。

たしかぼくのそんな一言が話題のきっかけだったんじゃないかと思う。

 

ルーデウスが過剰に小細工をして、常に不安を抱えている姿は見ていて不安になる。ぼくがそういう風に言うと、それがいいんじゃないか、と海燕さんが言うんですね。

人生になにが起こるかわからないその不安がいいんじゃないか。と続ける。

いや、それはわかるんだけれど、それにしても僕からしたら過剰に見える部分がある。あそこまで不安を抱えてたら人生がしんどいものになってしまうよ。そんな風にぼくがいえば、だから人生はしんどいものなんだよ、と返ってくる。

こりゃあ、互いに同じ作品をみていても作品から受け取った感覚がまったく違うなと只管に語り続けてたら、いつのまにか上記の記事の話題になっていた。

引きニートの話題もこの流れで出てきています。構造的には両者はまったく同じものに僕には見える。しかし受ける印象は全く異なる。

ぼくが共感を覚えるのは引きニート側であり、海燕さんが共感を覚えるのは無職側なんですよね。

しかし、作品から受ける印象は対照的といっていいほど違う。なぜなのか、という話をしたいと思います。

 

 
結論から書くと、両作品の差異は「主人公の意識の差」にあると考えます。

 

 そして、その意識の差が世代を象徴していると思うのですね。

 

 つまり、『無職転生』の主人公ルーデウスは旧世代的な思考の持ち主であり、『引きニート』の主人公であるユージは新世代的な考え方をしているということです。

 

 まず、「小説家になろう」堂々のランキング第1位である『無職転生』の魅力がどこにあったか確認してみましょう。

 

 端的にいって、それはひきこもりだった主人公が異世界へ行くことで今度こそ本気をだして生きようとするその真摯な姿勢にあると思います。

 

 ルーデウスはあるときトラックに轢かれて死んで異世界へ転生するのですが、生前の後悔からこの人生こそは成功させると努力します。

 

 そのかれの「本気さ」が読者の共感を呼ぶのです。

 

 一方、『引きニート』はどうか。

 

 実は、ユージはひきこもりをしていた10年間もの歳月を、それほど強く悔やんでいるようには見えません。

 

 かれは異世界へ行くとあっというまにそこになじみ、わりと気楽に暮らしていきます。

 

 それはルーデウスの真剣な姿勢とは大違いといっていいと思います。

 

 ここでなぜルーデウスは過去を悔やみ、ユージは悔やまないのかと考えると、究極的にはルーデウスはひきこもりの歳月を「自分のせい」と受け止めているのに対し、ユージは「運が悪かった」と捉えているからではないか、と思い至ります。

 

 つまり、ルーデウスは何年間もひきこもって周りに迷惑をかけたのは自分が悪かったのだと思っている。

 

 だからこそ、転生した後は同じ過ちを繰り返すまいと考える。

 

 しかし、ユージはいってしまえば自分は事故に遭ったようなもので、だれが悪いのかといえば、あえていうなら運命が悪いというほどに考えているように見える。

 

 この差があるから、ルーデウスは悔やみ、ユージは悔やまないのではないか。

 

 いい換えるなら、ルーデウスはとても自分中心に世界を捉えている。運命を自分の力で変えることができるものだとみなしている。

 

 対して、ユージは世界と世界として受け止め、運命に対して「ポジティヴな諦念」とでも呼ぶべきあきらめを抱いている。

 

 ユージにはこの世界は自分ではどうすることもできない悲惨な出来事が起こるものであって、それは避けようがないのだ、という思想があるということでもある。

 

 これを反転すると、ルーデウスにとっては自分の成功は「自分の功績」であるが、ユージにとっては「運が良かった」ないし「周囲のおかげ」であるということになる。

 

 まあ、簡単にいって、ふたりの間にはこういう差があるわけです。 

 

ちょっとだけ補足を入れておくと、ユージは自分の運命を受け入れちゃっているだけなんですよね。

 ルーデウスは失敗を「自分のせいだ」と考えているわけだけれど、ユージの側は「そういうものなんだ」と受け入れている。

これって、非対称の関係なんですよ。

ルーデウスと比較しちゃうとユージは「おれは悪くない」と思っている。つまりルーデウス側からしたら自己擁護をしているように見えるんじゃないかな。

しかし、ユージだって自分の失敗は失敗としてとらえているんです。なんで自分は上手く出来ないんだろうという悩みや葛藤も十分に抱えている。

それでも両者にどのような差があるかというと「何も考えない」ことが出来るかどうかの差です。ルーデウスなら当たり前に考える出来事のところを、ユージは何も考えないで行動してしまう。

だから、あやしい赤いキノコもたべちゃうんです笑

近年「嫌われる勇気」という本がベストセラーになりましたよね。

あの本は、ユージ側の人間からルーデウス側の人間に書いた本ととらえることが出来る。

ルーデウスの心配をばっさりと「そんなの考えても無駄ですよね」と指摘していく本だと僕はとらえている。哲人と青年が対話をしているから哲人が物凄くものを考えているように見えるけれど(実際考えているかもしれないけれど)、実際言っているのは「下手な考え休むに似たり」です。

ユージだって同じです。

彼が異世界に行ってまず行動したのは、周囲の探索や防衛の準備ではなく「10年ごしの引きニートを辞めて外出したら異世界に転移してた」とスレッドを立てることだった。彼はこの行動を意識してやったわけではないだろうけれど、この理由のひとつに「自分の能力には限界があるから掲示板の住人を借りよう」という思考がある。

ルーデウスが必死に自分でがんばろうとするのに対して、ユージは地球の集合知に頼ろうとする。

もちろん「そこで掲示板に行くの!?」という意見はあるだろう。この観点からでもユージの行動がずれているという指摘は正しいと思う。ただ、それは仕方ない。それがユージなんだから。

海燕さんが記事の中で次のように書いている

『無職転生』が一人称で主人公の行動と心理を追っていくのに対し、『引きニート』が三人称を採用しているのは偶然ではないでしょう。

 

 『無職転生』は基本的にルーデウスの主観の自己中心的な物語であるのに対し、『引きニート』はもう少し引いた視線で世界を俯瞰しているのです。

 

 そしてまた、ルーデウスにとっては、世界はどこまでいっても敵だらけであり、ある日それまで積み上げたものが崩れ去るという心配が消せません。

 

 一方、ユージにとっては異世界での生活すらそこまで警戒に値しないものです。

 

 ルーデウスは二度目の人生を生きているというチートを用いていますが、インターネットの掲示板にアクセスするパソコンを除くと、ユージにチートはありません。

 

 ルーデウスは自分は二度目の人生というチートで本気をだすことによって成功していると誤解(というか、一面的な理解)しているかもしれませんが、ユージはそもそも自分だけに根差すチートを持っていないので、他人だよりであることに自覚的です。

 

 そういう意味では、『無職転生』はやはり「なろう」らしい小説なのですね。

 

ここでも指摘されているように、ユージは他人頼りであることに自覚的です。

ここで、そのスタンスを「情けない!」と斬って捨てることは出来ると思います。実際に彼は情けない。でも、別にそこに甘えきっているわけではないと思うんですよね。「いま」できないことは「いま」できないんだ、ということに自覚的なだけなんだと僕はおもいます。「いま」できないからこそ、知ってるかもしれない相手に尋ねてみよう。応えてくれないかもしれないけれど、もし答えてくれたらいまの自分が考えるよりはいいだろう。「下手な考え休むに似たり」と考えている。

海燕さんも指摘していたけれど、これはベイビーステップのエーちゃんの考え方がまさにそう。最神話でもウインブルドンにきて自分は試合に出られないのに、いろんな選手に練習相手はいりませんか!、と突撃していく姿は同じスピリットで構成されているんだと思います。

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まぁ、ユージはヘタレだから同じ場面でも立ちすくむでしょうが。

それが、ユージが引きニートになってしまってエーちゃんが着実に前に進んでいる所以です。

これは今回の話題には関係ないけれど、エーちゃんとユージの大きな差が「ノート」の存在です。エーちゃんとユージは同じ新世代の感覚を持っているけれど、やらないとわからない、という発想は時としてとんでもないところへと突撃させてしまうことがある。ユージの場合はそのせいでトンチンカンな人間と扱われているけれど、じつはエーちゃんも本質的には同じトンチンカンな人間だと思うんですよね。しかし、エーちゃんの場合はノートの存在が方向性を提示してくれる。常に、次にやるべき最適解がノートから読み取ることが出来る。

書いてたら面白くなってきたからもうちょっとこの話題について話しましょう。

じつはユージの側の掲示板も、最終的にはエーちゃんノートと同じ効果を発揮することになります。エーちゃんノートの本質ってなんだろうとぼくは考えるんですが、最近思うのは、エーちゃんノートには無数の思考の軌跡が残されているということ。これはエーちゃんの思考の軌跡が残っているということだけではありません。エーちゃんの調べた相手やアドバイスをもらった相手の思考がそのノートに残されている。自分がトンチンカンなことをやりそうな時や、不適切な行動をしようとしたときはノートの中にいる思考が「それはやめておけ」とささやく。それによってユージほどはおかしな行動をとらない。

ユージのほうだって同じです。たしか途中から登場する「クールなニート」や「郡司先生」、妹の「サクラ」といった個性的でユージよりしっかりした人間がユージに適切なアドバイスをしていく。他人の存在を斬らないで成長していく物語が、ベイビーステップと10年ごしの引きニートの物語の一端だといえると思います。*1

で、これが新世代の感覚だと思うんですよ。

 

ところで、ぼくもうひとつ話題にしたいことがあるんだけれどしたいんだけれどいいかな?なんか脳内の何人かが「やめとけ」って言っているんだけれど……まぁ、いいや。言おう。

海燕さんはユージには自宅以外にチートはないといっていますが、実はもうひとつチート?がある。

それがユージの飼い犬のコタローです。メスなのにコタローと名づけられた可愛そうな女の子ですが、彼女はユージのことを慈しみ守り続けます。異世界でいつの間にかレベルアップして誰にも教わることなく風の魔法を使えるチートドッグです。明らかにユージより強くなっても、彼女にとってユージは主人であり身をとして守るべき大切な存在であり続ける。

10年ごしの引きニートはユージにはチートをつけなかったけれど、彼の周りにはチートを配置しておいてくれた。だからユージは幸運にも生き延びられた。

これは意図したことではないと思うけれど、読み解きとしておもしろいなって思うポイントです。

なにが面白いのかというと、新世代の人間にはチートが与えられないということです。地平のかなたまで続く日常を抱えている「受け入れる」世代と、世界には敵が溢れていると認識する「立ち向かう」世代。

これはペトロニウスさんがLINEで言ってたけれど、本当は世代論じゃないんでしょうね。

クールなニートなどを見ても思うけれど、むしろ環境や立場の差も大きいんじゃないかな。ぼくの感覚だとルーデウスの側は都会に多く、ユージの側は田舎に多い。

話を戻そう。

コタローは野生だからなのか、どちらかというと旧世代側の感性の存在なんですよね。途中から出てくる解体幼女アリスちゃんや血塗れゲガスとかもそうです。

10年ごしのニートは世界が敵だらけだと感じる世界に、世界は味方だと感じる頭がお花畑のユージがやってくる物語です。

放っておいたらすぐさま地獄の釜に放り込まれてしまいそうな環境だけれど、そんな彼を旧世代の人間たち(特にコタロー)がチートで守ってくれる。

ここで、なぜ彼らがユージを守るのかって話題もあるんだけれど、端的にいうと好きなんだと思うんですよね。

以前、ブロマガの方のテレ便でも書いたけれど、ちょっと引用してみようか

引きこもりをしていたせいでコミュニケーション能力には優れておらず、身体能力もチートと呼ばれるほどでもありません。9歳の女の子や愛犬にも負けるスペックです。
決して人生やり直しのオレツエェ人生ではありません。なろう主人公の中でも際立つ弱さだと言っても良いでしょう。
それでも、主人公はユージで描かれるんですよね。
自分より強い存在を妬まないでいられる心の強さ、あるいは鈍感さがユージのいいところだと物語では描かれています。最新話のあたりでは、ユージより強いはずのコタローはユージを自分より上位者であることを認めていることが示されています。
過酷な世界を生き抜くには必要ない優しさ(あるいは鈍感さともよべるもの)があるからこそ、コタローはユージを自分の上位者として認めているのでしょう。
強くなくてもいい。弱いからこそ得られる優しい視点を肯定する物語として、「10年越しの引きニートを辞めて外出したら自宅ごと異世界に転移してた」はすばらしいと思います。
それは弱者や強者という概念に関連しているけれど、その枠から少しずれた物語なんじゃないかなって思います。

 テレ便:

2016年3月10日 「10年越しの引きニートを辞めて外出したら自宅ごと異世界に転移してた」の良い所かいてたら普通のブログ記事くらいの長さになったてしまったので、どうしよう。あ、新しいパソコンかいました。

 

 読み直すと、まるでユージのスレでの発言のような日記タイトルだな(苦笑)

いや、いいんだよ。こういう感性だから引きニート好きなんだから(たぶん)

戻ろう。さっきから話題がずれてばかりいるきがするなぁ。気のせいかしら。

そこで、過酷な世界に生きる人間からしたらユージの優しさは自分たちには持ち得ないまぶしいものなんですね。一方のユージからしたら、そんな彼らが自分へと向けてくれる愛情へは感謝しか出てこない。

自分の今の限界を見据えて受け入れた世代らしい感性だと思います。

ユージの側にはルーデウスにはない諦念があるんですよね。それは、ルーデウス側の諦念とは種類の違う諦念です。

これは偏見が混じっていると思うけれど、この話題のとき、ぼくは『冒険王ビィト』を思い出します。

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物語中盤で、ビィトの命を救ったゼノン戦士団と彼らを翻弄した最強の敵ベルトーゼの戦いを回想するシーンがあります。強靭なベルトーゼにたいして才牙という魂を具現化した武器を暴走させて立ち向かうゼノンを見て、ベルトーゼも同じようにします。お前のその身体も近いうちに暴走して死んでしまうだろう。それが俺の勝利だ。というゼノンに対してベルトーゼが、この戦いの中でこの力の使い方を身につければいいんだろう。と言い放つシーンがあります。

これは車田正美さんの世界観でも似たようなことを言ってたりする。

ぎりぎりのところで自分が限界を乗り越えるという自負心(あるいは乗り越えるべきだという感性)があるんじゃないかな。

ユージの側にはそれはない。そういう一か八かの勝負に挑む前に別の方法でなんとかなるならまずそれを選ぶ。

ちなみに、ぼくこの話題を書きながら頭のなかでパトレイバーを思い出しています。

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あの物語は当時の空気の中では、どちらかというとユージ側だよなって気がする。

 

さて、そろそろ2時間くらい書いたからぼくも疲れてきた。そろそろ辞めようかな。海燕さんがドラゴンドグマはじめたって言ってきたから、ぼくも始めてみなくては。

同じような過酷な世界で、対照的といってもいいような物語を繰り広げているのが『無職転生』と『10年ごしの引きニート~』です。どちらもぼくとしては大好きなんだけれど、ぼくの感性としてはニートのほうが共感が強い。

でも、どうやら逆の感覚の人もいるらしい。

どちらか一方を読んでいる人は、もう一方も読むといいと思います。

 

それでは今日はここまでにします。次回以降の更新は本来の日記(日々の思い付きを書き留める場)になるんじゃないかな。わざわざ左に勉強予定表まで用意したんだから使わないともったいない。

ではでは。次の機会があれば。

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*1:これも海燕さんとの話題で出したんだけれど、「下手な考え休むに似たり」の考え方が延長してしまったからなのか、中には「面倒な相手は切ろう」という考えに陥るパターンもあるんじゃないのかな。もちろん中には切らないといけないこともある。しかし、面倒な相手ってのは言い換えると自分の考えもしないことを考えるってことだとも思うんですよね。相手を切るってことは、自分の間違いや考え方の指針にする他者を自分のうちに作りづらいってデメリットがあると思う。