テレ便

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解説?新世代の物語『10年ごしの引きニートを辞めて外出したら自宅ごと異世界に転移してたんだが』はどういう感覚で作り上げられた物語なのか

起きたら海燕さんが、昨日話してた話題を記事にしていた。びっくりだよ。ねるってってたじゃん!?

 

記事を読んだら、実に良くまとまっていたので、こりゃあ僕のほうも10年ごしの引きニート側からの記事を書いておくべきかなって思ったので何も考えずに筆をとることにします。

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あ、ちなみにブロマガのほうで掲載してたテレ便は運営に公式BANされましたのでこの場所を用意しました。おそらくSWAN SONGの画像とかがアウトだったんだ。エロゲの話題を気軽に出来ないとは、世の中はままならぬなぁ。

 

さて、まぁいいや。話を戻そう。

これが新世代の感性と物語だ! 『無職転生』と『10年ごしの引きニートを辞めて外出したら自宅ごと異世界に転移してた』を比較する。

この記事がおもしろいです。

ぼくと海燕さんが寝る前に互いに話してた話題が起きたら記事になっていた。まるで妖精さんみたいだ。

話題の発端は、昨日のひまつぶしラジオから始まります。聞いてた人には申し訳ないけど面白くなかっただろうな。ぼくと海燕さんが「ひまですねぇ」「ひまだなぁ」といいながら互いにゲームダウンロードしたりなろう小説を読んだりするだけのラジオだった。『10年ごしの引きニートを辞めて外出したら異世界に転移してた』の話題が出たのだけが価値のあるラジオだったかもしれない。

そして、ラジオの終了後ずーっと二人で話してたらいつの間にか、海燕さんが『無職転生』側、ぼくが『10年ごしの引きニート』側にたって互いに意見をぶつけることになってたんですよね。

 

『無職転生』は凄く好きなんだけれど、主人公のルーデウスの視点には共感できないんですよね。

たしかぼくのそんな一言が話題のきっかけだったんじゃないかと思う。

 

ルーデウスが過剰に小細工をして、常に不安を抱えている姿は見ていて不安になる。ぼくがそういう風に言うと、それがいいんじゃないか、と海燕さんが言うんですね。

人生になにが起こるかわからないその不安がいいんじゃないか。と続ける。

いや、それはわかるんだけれど、それにしても僕からしたら過剰に見える部分がある。あそこまで不安を抱えてたら人生がしんどいものになってしまうよ。そんな風にぼくがいえば、だから人生はしんどいものなんだよ、と返ってくる。

こりゃあ、互いに同じ作品をみていても作品から受け取った感覚がまったく違うなと只管に語り続けてたら、いつのまにか上記の記事の話題になっていた。

引きニートの話題もこの流れで出てきています。構造的には両者はまったく同じものに僕には見える。しかし受ける印象は全く異なる。

ぼくが共感を覚えるのは引きニート側であり、海燕さんが共感を覚えるのは無職側なんですよね。

しかし、作品から受ける印象は対照的といっていいほど違う。なぜなのか、という話をしたいと思います。

 

 
結論から書くと、両作品の差異は「主人公の意識の差」にあると考えます。

 

 そして、その意識の差が世代を象徴していると思うのですね。

 

 つまり、『無職転生』の主人公ルーデウスは旧世代的な思考の持ち主であり、『引きニート』の主人公であるユージは新世代的な考え方をしているということです。

 

 まず、「小説家になろう」堂々のランキング第1位である『無職転生』の魅力がどこにあったか確認してみましょう。

 

 端的にいって、それはひきこもりだった主人公が異世界へ行くことで今度こそ本気をだして生きようとするその真摯な姿勢にあると思います。

 

 ルーデウスはあるときトラックに轢かれて死んで異世界へ転生するのですが、生前の後悔からこの人生こそは成功させると努力します。

 

 そのかれの「本気さ」が読者の共感を呼ぶのです。

 

 一方、『引きニート』はどうか。

 

 実は、ユージはひきこもりをしていた10年間もの歳月を、それほど強く悔やんでいるようには見えません。

 

 かれは異世界へ行くとあっというまにそこになじみ、わりと気楽に暮らしていきます。

 

 それはルーデウスの真剣な姿勢とは大違いといっていいと思います。

 

 ここでなぜルーデウスは過去を悔やみ、ユージは悔やまないのかと考えると、究極的にはルーデウスはひきこもりの歳月を「自分のせい」と受け止めているのに対し、ユージは「運が悪かった」と捉えているからではないか、と思い至ります。

 

 つまり、ルーデウスは何年間もひきこもって周りに迷惑をかけたのは自分が悪かったのだと思っている。

 

 だからこそ、転生した後は同じ過ちを繰り返すまいと考える。

 

 しかし、ユージはいってしまえば自分は事故に遭ったようなもので、だれが悪いのかといえば、あえていうなら運命が悪いというほどに考えているように見える。

 

 この差があるから、ルーデウスは悔やみ、ユージは悔やまないのではないか。

 

 いい換えるなら、ルーデウスはとても自分中心に世界を捉えている。運命を自分の力で変えることができるものだとみなしている。

 

 対して、ユージは世界と世界として受け止め、運命に対して「ポジティヴな諦念」とでも呼ぶべきあきらめを抱いている。

 

 ユージにはこの世界は自分ではどうすることもできない悲惨な出来事が起こるものであって、それは避けようがないのだ、という思想があるということでもある。

 

 これを反転すると、ルーデウスにとっては自分の成功は「自分の功績」であるが、ユージにとっては「運が良かった」ないし「周囲のおかげ」であるということになる。

 

 まあ、簡単にいって、ふたりの間にはこういう差があるわけです。 

 

ちょっとだけ補足を入れておくと、ユージは自分の運命を受け入れちゃっているだけなんですよね。

 ルーデウスは失敗を「自分のせいだ」と考えているわけだけれど、ユージの側は「そういうものなんだ」と受け入れている。

これって、非対称の関係なんですよ。

ルーデウスと比較しちゃうとユージは「おれは悪くない」と思っている。つまりルーデウス側からしたら自己擁護をしているように見えるんじゃないかな。

しかし、ユージだって自分の失敗は失敗としてとらえているんです。なんで自分は上手く出来ないんだろうという悩みや葛藤も十分に抱えている。

それでも両者にどのような差があるかというと「何も考えない」ことが出来るかどうかの差です。ルーデウスなら当たり前に考える出来事のところを、ユージは何も考えないで行動してしまう。

だから、あやしい赤いキノコもたべちゃうんです笑

近年「嫌われる勇気」という本がベストセラーになりましたよね。

あの本は、ユージ側の人間からルーデウス側の人間に書いた本ととらえることが出来る。

ルーデウスの心配をばっさりと「そんなの考えても無駄ですよね」と指摘していく本だと僕はとらえている。哲人と青年が対話をしているから哲人が物凄くものを考えているように見えるけれど(実際考えているかもしれないけれど)、実際言っているのは「下手な考え休むに似たり」です。

ユージだって同じです。

彼が異世界に行ってまず行動したのは、周囲の探索や防衛の準備ではなく「10年ごしの引きニートを辞めて外出したら異世界に転移してた」とスレッドを立てることだった。彼はこの行動を意識してやったわけではないだろうけれど、この理由のひとつに「自分の能力には限界があるから掲示板の住人を借りよう」という思考がある。

ルーデウスが必死に自分でがんばろうとするのに対して、ユージは地球の集合知に頼ろうとする。

もちろん「そこで掲示板に行くの!?」という意見はあるだろう。この観点からでもユージの行動がずれているという指摘は正しいと思う。ただ、それは仕方ない。それがユージなんだから。

海燕さんが記事の中で次のように書いている

『無職転生』が一人称で主人公の行動と心理を追っていくのに対し、『引きニート』が三人称を採用しているのは偶然ではないでしょう。

 

 『無職転生』は基本的にルーデウスの主観の自己中心的な物語であるのに対し、『引きニート』はもう少し引いた視線で世界を俯瞰しているのです。

 

 そしてまた、ルーデウスにとっては、世界はどこまでいっても敵だらけであり、ある日それまで積み上げたものが崩れ去るという心配が消せません。

 

 一方、ユージにとっては異世界での生活すらそこまで警戒に値しないものです。

 

 ルーデウスは二度目の人生を生きているというチートを用いていますが、インターネットの掲示板にアクセスするパソコンを除くと、ユージにチートはありません。

 

 ルーデウスは自分は二度目の人生というチートで本気をだすことによって成功していると誤解(というか、一面的な理解)しているかもしれませんが、ユージはそもそも自分だけに根差すチートを持っていないので、他人だよりであることに自覚的です。

 

 そういう意味では、『無職転生』はやはり「なろう」らしい小説なのですね。

 

ここでも指摘されているように、ユージは他人頼りであることに自覚的です。

ここで、そのスタンスを「情けない!」と斬って捨てることは出来ると思います。実際に彼は情けない。でも、別にそこに甘えきっているわけではないと思うんですよね。「いま」できないことは「いま」できないんだ、ということに自覚的なだけなんだと僕はおもいます。「いま」できないからこそ、知ってるかもしれない相手に尋ねてみよう。応えてくれないかもしれないけれど、もし答えてくれたらいまの自分が考えるよりはいいだろう。「下手な考え休むに似たり」と考えている。

海燕さんも指摘していたけれど、これはベイビーステップのエーちゃんの考え方がまさにそう。最神話でもウインブルドンにきて自分は試合に出られないのに、いろんな選手に練習相手はいりませんか!、と突撃していく姿は同じスピリットで構成されているんだと思います。

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まぁ、ユージはヘタレだから同じ場面でも立ちすくむでしょうが。

それが、ユージが引きニートになってしまってエーちゃんが着実に前に進んでいる所以です。

これは今回の話題には関係ないけれど、エーちゃんとユージの大きな差が「ノート」の存在です。エーちゃんとユージは同じ新世代の感覚を持っているけれど、やらないとわからない、という発想は時としてとんでもないところへと突撃させてしまうことがある。ユージの場合はそのせいでトンチンカンな人間と扱われているけれど、じつはエーちゃんも本質的には同じトンチンカンな人間だと思うんですよね。しかし、エーちゃんの場合はノートの存在が方向性を提示してくれる。常に、次にやるべき最適解がノートから読み取ることが出来る。

書いてたら面白くなってきたからもうちょっとこの話題について話しましょう。

じつはユージの側の掲示板も、最終的にはエーちゃんノートと同じ効果を発揮することになります。エーちゃんノートの本質ってなんだろうとぼくは考えるんですが、最近思うのは、エーちゃんノートには無数の思考の軌跡が残されているということ。これはエーちゃんの思考の軌跡が残っているということだけではありません。エーちゃんの調べた相手やアドバイスをもらった相手の思考がそのノートに残されている。自分がトンチンカンなことをやりそうな時や、不適切な行動をしようとしたときはノートの中にいる思考が「それはやめておけ」とささやく。それによってユージほどはおかしな行動をとらない。

ユージのほうだって同じです。たしか途中から登場する「クールなニート」や「郡司先生」、妹の「サクラ」といった個性的でユージよりしっかりした人間がユージに適切なアドバイスをしていく。他人の存在を斬らないで成長していく物語が、ベイビーステップと10年ごしの引きニートの物語の一端だといえると思います。*1

で、これが新世代の感覚だと思うんですよ。

 

ところで、ぼくもうひとつ話題にしたいことがあるんだけれどしたいんだけれどいいかな?なんか脳内の何人かが「やめとけ」って言っているんだけれど……まぁ、いいや。言おう。

海燕さんはユージには自宅以外にチートはないといっていますが、実はもうひとつチート?がある。

それがユージの飼い犬のコタローです。メスなのにコタローと名づけられた可愛そうな女の子ですが、彼女はユージのことを慈しみ守り続けます。異世界でいつの間にかレベルアップして誰にも教わることなく風の魔法を使えるチートドッグです。明らかにユージより強くなっても、彼女にとってユージは主人であり身をとして守るべき大切な存在であり続ける。

10年ごしの引きニートはユージにはチートをつけなかったけれど、彼の周りにはチートを配置しておいてくれた。だからユージは幸運にも生き延びられた。

これは意図したことではないと思うけれど、読み解きとしておもしろいなって思うポイントです。

なにが面白いのかというと、新世代の人間にはチートが与えられないということです。地平のかなたまで続く日常を抱えている「受け入れる」世代と、世界には敵が溢れていると認識する「立ち向かう」世代。

これはペトロニウスさんがLINEで言ってたけれど、本当は世代論じゃないんでしょうね。

クールなニートなどを見ても思うけれど、むしろ環境や立場の差も大きいんじゃないかな。ぼくの感覚だとルーデウスの側は都会に多く、ユージの側は田舎に多い。

話を戻そう。

コタローは野生だからなのか、どちらかというと旧世代側の感性の存在なんですよね。途中から出てくる解体幼女アリスちゃんや血塗れゲガスとかもそうです。

10年ごしのニートは世界が敵だらけだと感じる世界に、世界は味方だと感じる頭がお花畑のユージがやってくる物語です。

放っておいたらすぐさま地獄の釜に放り込まれてしまいそうな環境だけれど、そんな彼を旧世代の人間たち(特にコタロー)がチートで守ってくれる。

ここで、なぜ彼らがユージを守るのかって話題もあるんだけれど、端的にいうと好きなんだと思うんですよね。

以前、ブロマガの方のテレ便でも書いたけれど、ちょっと引用してみようか

引きこもりをしていたせいでコミュニケーション能力には優れておらず、身体能力もチートと呼ばれるほどでもありません。9歳の女の子や愛犬にも負けるスペックです。
決して人生やり直しのオレツエェ人生ではありません。なろう主人公の中でも際立つ弱さだと言っても良いでしょう。
それでも、主人公はユージで描かれるんですよね。
自分より強い存在を妬まないでいられる心の強さ、あるいは鈍感さがユージのいいところだと物語では描かれています。最新話のあたりでは、ユージより強いはずのコタローはユージを自分より上位者であることを認めていることが示されています。
過酷な世界を生き抜くには必要ない優しさ(あるいは鈍感さともよべるもの)があるからこそ、コタローはユージを自分の上位者として認めているのでしょう。
強くなくてもいい。弱いからこそ得られる優しい視点を肯定する物語として、「10年越しの引きニートを辞めて外出したら自宅ごと異世界に転移してた」はすばらしいと思います。
それは弱者や強者という概念に関連しているけれど、その枠から少しずれた物語なんじゃないかなって思います。

 テレ便:

2016年3月10日 「10年越しの引きニートを辞めて外出したら自宅ごと異世界に転移してた」の良い所かいてたら普通のブログ記事くらいの長さになったてしまったので、どうしよう。あ、新しいパソコンかいました。

 

 読み直すと、まるでユージのスレでの発言のような日記タイトルだな(苦笑)

いや、いいんだよ。こういう感性だから引きニート好きなんだから(たぶん)

戻ろう。さっきから話題がずれてばかりいるきがするなぁ。気のせいかしら。

そこで、過酷な世界に生きる人間からしたらユージの優しさは自分たちには持ち得ないまぶしいものなんですね。一方のユージからしたら、そんな彼らが自分へと向けてくれる愛情へは感謝しか出てこない。

自分の今の限界を見据えて受け入れた世代らしい感性だと思います。

ユージの側にはルーデウスにはない諦念があるんですよね。それは、ルーデウス側の諦念とは種類の違う諦念です。

これは偏見が混じっていると思うけれど、この話題のとき、ぼくは『冒険王ビィト』を思い出します。

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物語中盤で、ビィトの命を救ったゼノン戦士団と彼らを翻弄した最強の敵ベルトーゼの戦いを回想するシーンがあります。強靭なベルトーゼにたいして才牙という魂を具現化した武器を暴走させて立ち向かうゼノンを見て、ベルトーゼも同じようにします。お前のその身体も近いうちに暴走して死んでしまうだろう。それが俺の勝利だ。というゼノンに対してベルトーゼが、この戦いの中でこの力の使い方を身につければいいんだろう。と言い放つシーンがあります。

これは車田正美さんの世界観でも似たようなことを言ってたりする。

ぎりぎりのところで自分が限界を乗り越えるという自負心(あるいは乗り越えるべきだという感性)があるんじゃないかな。

ユージの側にはそれはない。そういう一か八かの勝負に挑む前に別の方法でなんとかなるならまずそれを選ぶ。

ちなみに、ぼくこの話題を書きながら頭のなかでパトレイバーを思い出しています。

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あの物語は当時の空気の中では、どちらかというとユージ側だよなって気がする。

 

さて、そろそろ2時間くらい書いたからぼくも疲れてきた。そろそろ辞めようかな。海燕さんがドラゴンドグマはじめたって言ってきたから、ぼくも始めてみなくては。

同じような過酷な世界で、対照的といってもいいような物語を繰り広げているのが『無職転生』と『10年ごしの引きニート~』です。どちらもぼくとしては大好きなんだけれど、ぼくの感性としてはニートのほうが共感が強い。

でも、どうやら逆の感覚の人もいるらしい。

どちらか一方を読んでいる人は、もう一方も読むといいと思います。

 

それでは今日はここまでにします。次回以降の更新は本来の日記(日々の思い付きを書き留める場)になるんじゃないかな。わざわざ左に勉強予定表まで用意したんだから使わないともったいない。

ではでは。次の機会があれば。

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*1:これも海燕さんとの話題で出したんだけれど、「下手な考え休むに似たり」の考え方が延長してしまったからなのか、中には「面倒な相手は切ろう」という考えに陥るパターンもあるんじゃないのかな。もちろん中には切らないといけないこともある。しかし、面倒な相手ってのは言い換えると自分の考えもしないことを考えるってことだとも思うんですよね。相手を切るってことは、自分の間違いや考え方の指針にする他者を自分のうちに作りづらいってデメリットがあると思う。