人生の後悔から生まれたすべての小説へと祝福を
ただいま~
昨日、いろいろやって東京から帰ってきました。これで、自分のこなさなければならないタスクを随分と終了させることが出来た。
それにしても、具体的には言えないが辛いけれど終わってみるといい経験だった。成長している気がするな!
あ、とりあえず、画像が欲しいから今回の話題に関連しそうな本を適当に貼ってみよう。
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さて、まだ日記再開できないけれど、今回はやはり海燕さんの記事を受けての内容。
人間の正しい生き方とは何か。
という記事です。
これ、昨日帰ってきてから朝までずっと海燕さんと話してたんだけれど、その一部の内容です。ぼくは話していることを喋りきったら忘れちゃうんだけれど、海燕さんは覚えているみたいです。すごいなぁ。
おかげで、この記事読んでたら昨日の会話の一部が思い起こされました。
まぁ、枝葉の話なんかは思い出さないんだけれど、一つ面白い話をしたことを思い出したので書き留めておこう。
もしだんだん不自由になっていくとしたら、それはどこかで間違えているのです。
つまり、生きつづけることでより幸せになっていくようなスタイルが正しいのだと思う。
人生が進めば進むほどに不幸に不自由になっていく生き方は、どこかに問題がある。
もちろん、人生はそううまくいくとは限りません。生きていれば色々なアクシデントがありえるでしょう。
しかし、少なくとも精神的にはゆっくり楽になっていくことが望ましい。
生きつづければ生きつづけるほどにしんどくなっていくのだとすれば、何か問題を抱えていると考えるべきです。
その生き方をひとことで「成長」と呼んでもかまいませんが、必ずしも能力が向上し人格が陶冶される、といったことを指しているわけではありません。
ダメなままでもいいのです。
ただ、自分を縛る色々なものから解き放たれていくことが大切だと思う。歳を取れば取るほど縛られていくようでは困る。
正しく生きていれば、ひとはゆっくり解放されるものです。
これは、さっきの海燕さんの記事の引用です。
ある意味どこを抜き出しても同じだから、適当に最初の方を抜き出してきました。
ここで、海燕さんの話していることってぼく自身の信念でもある。
ぼく自身に会ったことがある人は、わかるかもしれないけれど、ぼくは自由闊達というのが好きなんですよね。しかし、ただ自由なだけではダメなんですよ。
ぼくの好きな言葉に、論語の「我十有五にして学を志す~」って有名な孔子の言葉があるけれど、その言葉の最後が「心の赴くままに行動すれども則を越えず」ってのがある。
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自由気ままにやっても、周りとのコンフリクトがなく生きられるって最高だねって言葉だと思うんだ。やっぱり、なんだかんだ言って周りとの軋轢ってストレスだからね。
じゃあ、嫌な相手を遠ざければいいじゃんって言うかもしれないけれど、「嫌な相手がいる」ってこと自体がストレスなんですよね。その戦略として、嫌な相手と出会わないようにするとか、相手と異なるステージに行ってしまうというのは的確な戦略だと思う。
しかし、理想的なのは「どこでも自由に振舞える」うえでコンフリクトを起こさないのが理想なんだろうな。ぼくは昔からそれが理想だと信じている。
ぼくは許される、って表現を使うんですが、何処にいてやりたいことをやってもそこそこ許されるひとというのが世の中にはいる。その最終系が「則を越えない」ってことだと思うんですよね。
で、少しずつかもしれないけれど、ぼくは自分と異なる分野に適合できるようになっている感覚がある。それは少し嬉しいなって思います。
こういう感覚が、年を取るほどに自由になるってことだと思うんですよね。そして、それがぼくと海燕さんの考えている共通の理想の一つだと思うんだ。
で、ここまでがおまけ話。というか前提話?
この「年を取るほどに自由になる*1」という感覚なんですが、じつはこれもストレスになったりする。
『小説家になろう』で批判されるものの一つに「自分のやりきれない想いやうっくつを解消する場」というのがある。「転生」って概念、つまり「2週目の人生はもっと上手くやれる」ってのは「もっと早く出来ていれば・・・」という後悔の裏返しでもある。
人生の早い段階で適切なスキルが開放されたひとは、その世界を楽しむことが出来るだろう。しかし、多くの場合は一番必要なときに持ち得なかったスキルを、後になってから獲得することが多いんじゃないかな。
そのスキルを得た後に過去を振り返って、あのときこのスキルを持っていたら、というやりきれない思いや後悔が小説として表現されている。
だから、うへぇ、とする人もいるんだろう。
まぁ、それはいいんだけれどね。そういうときは読むのを辞めたらいいわけだし。
でもね。昨日ふと思ったんですよ。
小説家になろうが仮に過去の後悔を無聊する場だったとしよう*2。しかし、読み手がそういう受け取り方を必ずしもする必要はないよなって。
むしろ、そういう後悔が描かれた作品を祝福だと捉えて読んだほうが面白いよなって。
べつに、作品の鬱屈とした思いが良いとか言わないよ。ぼくはそういうのどちらかというと苦手だし。
そうではなくて、小説に後悔を書いているということは、その後悔を書いてる本人は自覚しているんだよな、と。
たとえば人との付き合い方や、組織での生き抜き方、女の子との仲良くなり方でもいい。そういう様々なスキルが昔より育ったから後悔しているんだよね。
それって小説を書いている本人は昔より自由に近づいたってことじゃないのかな?
それって祝福すべきことだよね、って、そうぼくは思った。べつに嘆くことじゃないよね。
これを海燕さんに話したら「それは少し面白いね」みたいに言っていたんで、覚書き程度に残してみた。
後悔できるくらいにスキルアップできたんだから良かったね、って小説を読むときに思うと幸せになるよね。そして、もし書いている人が失敗したと思っていてもちゃんと前に進んでいるんだからいいことじゃないか、とそういいたいわけです。
人生は望んだときに望んだスキルが開放できるとは限らない。だからスキル開放のタイミングが遅かったと嘆くこともあるだろう。
上手いタイミングで上手くスキル開放されたなら最高だけれど、そうは上手くいかないかもしれないじゃない。そういうどうしようもないことを嘆くのは、わかるけれど、まぁ置いておこう。
一時嘆いたあとに、でもおれ成長したじゃんあのときのトラウマ乗り越えたぜ、って思ってみたら少しスッキリするよね。
幸せじゃないですか。
なんかね。そんなこと思ったら、よかったね、と言ってみたくて記事にした。
おめでとう。良かったね。ちょっと自由になったじゃん。苦しむ必要はたぶんないですよ*3
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